持つべきものは妙なこだわり

執着はいずれ愛着に変わるのである

『習得への情熱』新しいことに挑戦し、それを極めることに興奮する人へ

『習得への情熱』(著:ジョッシュ・ウェイツキン) を読んだ。チェスチャンピオンから太極拳のチャンピオンへと飛躍の場を変えた人だ。「私が得意なのはチェスでも太極拳でもなく、新しいことを習得することだ」と言っている (原文のとおりではない)。新しいことへの挑戦、さらに「さわり」だけでなく自分が納得するところまで極めたい・うまくなりたい、そういうことが大好きな人には一読の価値がある。筆者の自己体験に費やされているページ数が多くて長いのが玉に瑕だが、私は読み上げたオーディオを聴くことでそれほど苦にはならなかった。

妥協のない鍛錬、練習:それがすべての土台

筆者の示す方法論の土台にあるのは、ここまでかというほどの時間と量の鍛錬である。その量や質は人やレベルによって違うのだろうが、嘘偽りなく「妥協していない」という自己納得感が、試合で勝つ・本番でうまくいくために必要なのだろう。

ゾーン、自分と相手の心理状態

筆者のいうゾーンとそのエピソードとは少しずれるかもしれないが、自分が比較的「うまくいった結果を残せている」ピアノで考えてみると、安定なゾーンと不安定なゾーンがあると感じている。
「不安定なゾーン」は、何も意識しなくても演奏ができている状態。自動演奏状態である。晩ご飯何を食べようかな、ということまで考えられる。しかしこの状態は不安定で、何かふときっかけがあるとミスを犯し、崩壊し、元に戻れなくなる。この手前には「安定なゾーン」がある。そこでは、意識を絶え間なく集中させて初めてゾーンを維持できる。自動演奏・無意識でない分、維持には集中力を要するが、外乱には強く、ちょっとのことでは崩れない。また、崩れても持ち直せる。次の「ミクロからマクロへ」にも通じるところがあるのだが、自分の力で意識的に構築したゾーンだから、崩れたり崩れようとしても再構築できるのだと思う。
そのゾーンのとき、どのような気持ちなのか。そこに至るまでどのような気持ちの変化があったか。それを徹底的に分析することが、次も(偶然では無く意図的に)うまくいくための必須の作業なのだ。相手がどういう気持ちになっているのかを想像することの重要性も説いていた。これは難しそうだが、相手の位置に自分が立っていたら、と考えるのが効果的であるように思う。

ミクロからマクロへ

著者はチェスを鍛えるとき、キング・ポーン (王将・歩) 対キング (王将)という、非常に単純かつ最小限の構成で鍛錬を積むのだという。これには、私もピアノの練習で思い当たることがある。
ピアノで片手ずつ練習することはよく知られていると思うが、片手をさらに一音一音に (多声部を一声ずつに) 分解して音をゆっくりと追う練習方法がある。このようにして練習を重ねると、すべて同時に弾いてもそれぞれの声の流れを意識できる。どの音を聞かせたいのかもコントロールできるし、作曲者の意図の理解も深まる。非常に長い時間がかかるが、本番演奏の完成への貢献度はとても高い。気に入っている練習方法だ。
試合が苦手なテニスで言えば、これは一つ一つの動作でどのような筋肉を使うかを意識するということになるだろうか。徹底的に分析して、意識して、それが最終的には無意識な動作に繋がる。そういうことなのだろう。これには結局、途方もない練習が必要なのは間違いない。

来たるべき舞台ではなく地味な日々に喜びを見出す

「明日から本気出す」人には明日はこない、「チャンスが来るのを待っている」人は目の前にチャンスが来ても気付かない。地味な練習の日々こそ人生なのだから、それをいかに楽しみ喜ぶのかを徹底的に考えるのが全うだし、うまくいけば毎日が楽しくなるので合理的なのである。
『インナーゲーム』で初めて知った「いま、ここに」という考え方は、様々な本で再会する。人間の原理の一つなのだろう。

関連書籍

『インナーゲーム』(著・ガルウェイ) も、勝負における内面を突き詰める良書だ。なかでも「なぜ私たちは試合、勝負をするのか?」の章がとても好きだ。自分の能力を最大限発揮する場を提供してくれるのが試合・勝負であり、相手である。そう考えると、相手にダブルフォールトしてくれなどと思うことはなくなる...。テニスをテーマにしているが、他のスポーツでも当てはまることが多々あると思う。

インナーゲーム

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